Could not sense the atmosphere?

2007年 12月 04日

2007 新語・流行語大賞の候補となっていた “KY(空気が読めない)” は、実に現代の日本らしい表現だと思った。

Kは「空気」、Yは「読めない」の略。以前は「空気を読め」といった意味で使われていたが、最近は「あいつKYだ」のように「空気を読めない」あるいは「空気を読めないヤツ」の意味で使われる。9月に辞任した安倍首相に関して頻用され、一般に広まった。

それは愚かな行為や言動に対する揶揄という表面的なもの以外に、”出る杭は打たれる” という諺にも見受けられるような失敗を恥とし得手よりも不得手を改善しようとする無意識に植え付けられた教育方針や、皆で共同作業をする農耕民族的な倫理観をも同時に表していると感じたからだ。

ここでこの感覚の根底にあるタルムードの教えを一つ引用し、空気を “読める人” を “賢い者”、”読めない人” を “愚かな者” に置き換えるとその真意が見えてくる。

賢い者は、自分が何を話しているのか知っており、愚かな者は、自分の知っている事を話す。

もし “空気を読めない” 人がその道の未熟者であったなら、その愚かな言動を正すよう考えるべきであって “空気を読め” と主張することは何ら建設的な意見とはならないばかりか、彼自らが愚かな状態であったということに気付く機会を奪っていることになる。逆に習熟者であったとしても同様なのだが、状況に応じて沈黙し静観することが “賢い者” なのだろうと思う。

そうすると、大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなるという悲しい事実も、実はその周りにいた誰もが “賢い者” だったという側面を持ち得ることになる。

その時にも思ったのだが、「間違いを指摘してもらえる大人」にならなければいけないとつくづく思う。

インターネットを伝達手段とした場合の不特定多数への信頼は効率が良いことは明らかではあるが、実社会においては “ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち” で Paul Graham 氏が主張するようにタブーへの危険性を避けるべきだろう。

話を戻すと、つまり “空気を読め” と言う人と “空気を読めない” と言われる人は、同じ(愚かな)場所にいて違う方向を向いているということにならないだろうか。結果的に安倍首相は閣僚という道において未熟者であったため “空気を読めない” と言われたのかもしれないが、もしこの言葉を同業者が使っていたのなら、辞任前に首相交代を実現できなかった彼らもまた愚か者である。(もっとも、傍から見てもピーターの法則を理解しておく必要がある。)

この言葉が一般的にどう広まっているのか多いに気になるところだが、他者に向けて使いたいとは思わない。

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