区別と差別

2008年 2月 24日

植物はどうなのか不明だが、動物であれば誰もが生きる過程で学習するものの、無意識に誤用する可能性のあるもの、それは “区別” と “差別” だ。

レッテルはちゃんと貼れ :: 事象の地平線::—Event Horizon—
digitalひえたろうさんの「「レッテル貼り」というレッテル貼り」より。

つまり「レッテルを貼ること」が問題なのではなく、レッテルがその内容をどう反映しているかが問題なのだ。

(中略)ところで、どうして「レッテル貼り」がネガティブイメージを伴う言葉になったのかと考えてみた。

科学者が “科学” と “ニセ科学” を区別することに端を発し、それが否定的な印象を与えているということについて一連の議論が続いている。一時話題になった菊池教授による論説では、二分法の危険性を説きつつも、実は彼自身が “科学” と “ニセ科学” の二分法を用いるという矛盾が見受けられたことは確かであるし、彼にその意図があるかどうかは分からないが、一方を卑下しているように感じられてしまったことが “区別” が “差別” に変化した原因だろうと考える。

ここで学ぶべきことは “区別” に否定的な感情や思考を用いると “差別” という負の連鎖が発生するということだ。もっとも、他者と(あるいはその区別、比較から)は学ぶべき対象であっても羨望や嫉妬の対象ではないということは以前のエントリにも書いた

さらにこの “レッテル貼り” という言葉が “区別” なのか “差別” なのか、無知になっている意識の執着を溶かす教えが仏教にある。

賢者は、存在にも非存在にも留まらない。

つまり、対象が “科学” だろうと “ニセ科学” だろうとどちらかに固執する必要は無いのである。もちろん、物事を相対的に理解するためにその区別を主張することは有意義だが、どちらか一方に、しかも否定的な意識を持って接することは否定的な世界を生み出す第一歩となる。

「how to」 よりも 「why to」 – 女。京大生の日記。
「やっと野球がおもしろいと言えつつある感覚をつかみ始めた。」
というイチローの言葉に、アマチュアから脱皮したプロフェッショナル道の追求は最終的にアマチュアへと回帰していくのかということを直観する。

これと同様のことが “プロ・アマ論” という区別にも言えると感じる。これは別エントリにしようと考えているが、一流のその向こうには “回帰” という一方通行な表現よりも、どちらにも留まらない、より自由な言葉が似合うと思う。

それにしても、”インテリ大戦争” という書は面白そうだ。

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